平成15年9月26日号(HTML版)VOL.30
山口県ホームページ

 
おもしろ山口学

リレー随筆  「萩焼」著/石﨑泰之(山口県立萩美術館・浦上記念館 学芸員)

中原中也記念館ホームページ

第1回『中原中也の生い立ち』

 詩人中原中也(なかはら ちゅうや)は、1907年4月29日山口市湯田温泉(現在中原中也記念館が建っている場所)で生まれました。軍医の父謙助と母フクの長男です。養祖父も開業医でしたから、当然のように、医者になると期待され、教育されました。
 幼稚園は父の転勤にともない、広島、金沢と変わりましたが、小学校は地元の下宇野令小学校(現・湯田小学校)へ入学。後に師範付属小学校・山口中学校に通います。成績優秀だったのですが、途中で文学に熱中、遂に落第。京都立命館中学に転校。
 ここで、詩について学ぶきっかけとなる友人や恋人との運命的な出会いがありました。その後、恋人長谷川泰子と共に上京。恋人が友人小林秀雄の下に去ってからも、お互いの交流は続いて、さまざまな人間関係や創作活動の契機になったのです。
 小・中学校時代の初期短歌から出発し、共著歌集「末黒野(すぐろの)」の出版。東京ではまず翻訳詩集として、ランボーの作品を3冊刊行しました。第1詩集「山羊の歌」は彫刻家高村光太郎の題字・装幀。200部限定ながら見事な出来映えで評判となりました。
 山口市在住の遠縁に当る上野孝子と結婚。男児2人にも恵まれたのですが、長男文也の突然の死に衝撃を受け神経衰弱となり千葉寺の中村病院へ入院。退院後鎌倉へ転居。1937年10月病没。結核性脳膜炎。享年30才。
 死後第2詩集「在りし日の歌」出版。次男愛雅も死亡。墓は市内吉敷「中原家累代之墓」、文字は、中也の筆によるものです。他に詩碑は市内に3基。長門峡に1基あります。
 
 


第2回『中原中也の詩と山口』

 第1詩集『山羊の歌』に収録された初期詩篇中の作品「帰郷」の一節が有名です。友人小林秀雄の筆によって、市内湯田温泉高田公園の詩碑にも刻まれました。

  これが私の故里(ふるさと)だ
  さやかに風も吹いてゐる
  あゝ おまへはなにをして來たのだと・・・
  吹き來る風が私に云ふ

 中也の歌う春風や秋の日射し、田んぼや雲雀(ひばり)や山の木々には、常にふるさとの風土が反映されているのではないでしょうか。
 第2詩集『在りし日の歌』の中の「一つのメルヘン」の舞台は、中原家墓地横の吉敷川(別名水無川)といわれています。

  秋の夜は、はるかの彼方(かなた)に、
  小石ばかりの、河原があつて
  それに陽は、さらさらと
  さらさらと射してゐるのでありました。

 さらさらという繰返しが、透明な空気まで伝えてくれるようです。同じ場所を未刊詩篇中の「蝉(せみ)」では

  それは中国のとある田舎(ゐなか)の、水無河原(みづなしがはら)といふ
  雨の日のほか水のない
  伝説付の川のほとり、
  藪蔭(やぶかげ)の砂土帶(さどたい)の小さな墓場、

と、より具体的に描いています。
 他に山口市郊外小鯖の鳴滝を歌ったとされる「悲しき朝」の作が詩碑に刻まれました。
 景勝地で知られる長門峡(阿武郡)には、絶唱「冬の長門峡」の詩碑もあります。