平成15年8月22日号(HTML版)VOL.28
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おもしろ山口学

リレー随筆  「萩焼」著/石﨑泰之(山口県立萩美術館・浦上記念館 学芸員)

第1回『萩焼のはじまり』

 萩焼は、蹴轆轤[けろくろ]による成形と藁灰釉[わらばいゆ]の使用を特徴とする、朝鮮系の陶技を移入した施釉[せゆう]陶器です。防長[ぼうちょう]二国を領有する毛利氏の御用窯[ごようがま]として、萩城下の松本(萩市)に開かれました。それは戦国期の中国地方に一大勢力を誇っていた毛利氏が、本拠を安芸の広島から長門の萩へと移した慶長9年(1604)をあまり下らない頃のことと考えられます。御用窯は17世紀半ばには領内の深川(長門市)にも分窯され、また松本でも生産体制の拡大が図られるなど、旺盛な活動をみせながら幕藩体制の終焉期[しゅうえんき]まで続けられました。萩藩による経営管理が終わった明治期にはこれら藩政期の窯場は独立し、それに加えて宮野(山口市)へ萩の陶工が進出するなどして、今日まで連綿[れんめん]とその陶技の冴えを伝えています。
 ところで、毛利氏の御用窯での施釉陶器生産には、当時の西日本における陶磁器需要の増大が背景にありました。織田、豊臣両氏による全国統一の過程で政治的な安定をみせはじめた16世紀の社会では人々の経済力もしだいに向上し、華やかな青花[せいか]磁器を主流とする中国や朝鮮からの輸入陶磁器、そして中世以来国産の高級施釉陶器を焼いた瀬戸・美濃窯の製品の供給量を上回る需要状況が現れていました。しかし、西日本地域には1580年代にはじまった唐津焼以外に施釉陶器を生産する窯はありませんでした。
 おりしも、豊臣秀吉最晩年の文禄・慶長の役で朝鮮半島に出陣を命じられた西国大名のうち力のある者たちは、当地で技術をもった陶工たちを確保して連れ帰る機会を得ました。萩とほぼ同じ頃に開窯した上野、高取、薩摩などにも共通する事情で、今から400年ほど前に山口・九州の各地に相次いで窯場が築かれたのは時代の要請であったといえるでしょう。毛利氏は帰陣に際して、のちに萩焼開祖とされる李勺光[りしゃくこう]や李敬[りけい]という陶工たちを連れ帰っています。
 
 


第2回『茶陶「萩」』

 室町時代末期、茶の湯の世界で興った「侘[わ]び」の美意識の深まりとともに、高麗茶碗[こうらいちゃわん]が珍重されるようになりました。はじめは、朝鮮王朝から輸入された普段使いの施釉[せゆう]陶器碗のうち、茶人の眼に適ったものが茶碗として取り上げられたと思われますが、鑑賞意識の深まりとともに、次第に当初から茶会での使用を目的(造形的表現を重視した)とした茶碗が注文されるようになりました。
 これは器が日用器の碗という本来の用途を外れ、別の造形物「茶の湯の碗」として成立していく過程といえるのです。茶会における演出の道具としての相応しさが求められた茶碗は、美的価値の判断に造形的表現が基準とされました。
 茶の湯の世界で、「一楽二萩三唐津[いちらくにはぎさんからつ]」という言葉がありますが、これは茶会における品格の高い茶碗を挙げたものです。侘びた風情を求める茶の湯の美意識において、(高麗茶碗の系譜にあり)釉調[ゆうちょう]に独自の美感をみせる萩焼茶碗の優れた造形性が高く評価されていたことがうかがえます。
 
 


最終回『伝統と革新』

 萩の地に定着をみたここ400年の作陶の伝統は、朝鮮半島から伝わった製陶技術をもとにして、そのときどきの造形的に新しいモードを取り込みつつ、風土に根ざした独自の美感を加えるという、絶え間ない新陳代謝によって形成されて来ました。
 今日美術館などで触れることのできる過去の萩焼茶碗の秀作に、私たちが創造的な力強さを感じることができるのは、実はそれらの中に、それぞれの時代の先端的な表現を取り込もうとするアヴァンギャルド(前衛)の造形思考があると認識できるからでしょう。
 前衛陶芸の分野で活躍し、この春、第十二代を襲名した三輪休雪[みわきゅうせつ]さんは、「皆さんが伝統的だとおっしゃる父(三輪壽雪[みわじゅせつ][第十一代休雪]、人間国宝)の仕事は私から見れば、革新的な感があり、父の長い作陶生活における仕事は萩焼400年のなかにどこにも出てこない」「茶陶であるから伝統で、オブジェであるから革新的ということではなく、それは茶陶の茶碗を作ろうが、どういう姿勢で作るかによって内容が決まってくると思います」「私は父がやってきたように、私も茶陶をやっても私なりの姿勢でやっていこうと思います」と、ご自身のこれからの制作を展望しています。
 新たな表現領域の創出に挑戦し続ける豊かな感性こそ、萩の作陶の伝統といえるでしょう。