平成15年7月11日号(HTML版)VOL.25
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おもしろ山口学

リレー随筆  「必読・巌流島」著/武部忠夫(海峡座 主宰・梅光短大 講師)

第1回 『武蔵vs小次郎の決闘の場所はどこだったのか。』

巌流島・空撮

 山口県の地形を鳥の目で眺めると、神秘性が高まる。日本海側に青海島、ホルンフェルス奇岩群。中央部に秋吉台、秋芳洞の海底隆起。そして最西端に天然運河の関門海峡が流れている。その海峡に浮かぶ小島が巌流島。慶長17年(1612)4月13日、細川藩指南役の巌流佐々木小次郎と二天一流宮本武蔵の決闘が行われ、武蔵が勝利した。当時この小島は舟島(ふなじま)と呼ばれていたから、敗者の名が島に刻みつけられたわけだ。ところが江戸中期の古地図には、舟島の南側に小さなガンリュウ島が記してある。しかも歌川貞秀図絵では決闘の岸辺さえ見出せない、まさに岩壁のそそり立つ“岩流島”だ。すると決闘の場所は古地図に小さく描かれた浮州(うきす)だったのか。
 

第2回 『巌流島を訪れた有名人』

巌流島文学碑

 吉田松陰は、嘉永2年(1849)夏、長州藩の急務によって萩から海岸線を視察しながら関門海峡に向かった。海岸防備と危機管理の状況を「廻浦紀略」(かいほきりゃく)に記録するためだった。「七月十六日 舟に乗りて巌流島に至る。此れ、佐々木巌流、宮本武蔵撃剣し、巌流討たれたりという。巌流の墓あり。」と松蔭自ら巌流島上陸を記述している。幕末、海峡を舞台に活躍した高杉晋作・坂本竜馬だって史料こそ未見だが上陸したかも知れない。昭和初期、文壇で武蔵・小次郎論争が盛んだったころ、歌人の斎藤茂吉が巌流島を訪れ敗者小次郎の死を悼み秀歌を捧げた。「わが心いたく悲しみこの島に 命おとしし人をしぞおもふ」あなたは武蔵派、小次郎派?

第3回 『見捨てられていた巌流島』

巌流島の決闘再現

 戦略的機知とサバイバルの壮絶さが集約された巌流島の決闘。しかし、ある時期から長きにわたって日本人から忘れ去られてしまった。太平洋戦争後、GHQの占領政策は日本人によるすべての武闘を禁じた。チャンバラ映画も剣道修練もノーだった。巌流島には戦火で家を失った人びとが住みついた。そのうち無人の島となり草茫々の姿をさらしていた。名前も忘れられ見捨てられた島だった。ところが、下関在住の一群の青年たちが昭和58年(1983)町おこしの起爆点に巌流島復活を賭けたのだ。あれから20年、「巌流島ピクニックコンサート」「巌流島フェスティバル」として巌流島は新時代に甦り、メインイベント巌流島の決闘再現が若者の人気を呼んでいる。

最終回 『ナゾ深まる巌流島の決闘』

巌流島の決闘再現

 NHK大河ドラマの影響で、巌流島は全国的注目を浴びているがナゾはナゾを呼び、まるで歴史の探偵ごっこの様相だ。小次郎の出生は越前(えちぜん)説あり落胤(らくいん)説あり。武蔵の誕生地は三ヵ所におよぶ。巌流島を抱く下関彦島には「舟島伝説」があり、武蔵の幼名をもじった「弁」が登場する。つまり弁之助をカタカナに分解しムサシと読む。伝説では、ムサシは多数の門弟を引き連れ巌流島で小次郎を倒すが、追われて小倉で何者かに抹殺されたという。「小倉碑文」の記述は巌流島決闘から50年超、「二天記」に至っては100年以上過ぎた後世の記録。決闘の朝、武蔵が出陣した下関の船宿小林太郎左衛門は、女優田中絹代のルーツ説。絹代の実家は、下関の豪商小林家である。